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秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
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アクセス
■所在地
東京都新宿区霞ヶ丘町10番2号
03-3403-1159
■最寄り駅
・JR総武線(各駅停車)
千駄ヶ谷駅下車 徒歩5分
・JR総武線(各駅停車)
信濃町駅下車 徒歩8分
・東京メトロ銀座線 外苑前駅下車
徒歩15分
・都営地下鉄大江戸線
国立競技場駅下車(A2出口)
徒歩1分 |
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第9回アムステルダムオリンピック(1928年・昭和3)で金メダル2個、銀2個、銅1個と大活躍をした日本は、第10回ロサンゼルスオリンピック(1932年・昭和7)に前回の4倍に近い192名の役員選手団を送りました。
その内訳は、男子選手115名、女子選手16名、役員61名という今までにはない大デレゲーションでした。日本選手団数は、各国全選手団数の実に約1割を占めていました。このときの団長は平沼亮三氏でした。(ちなみに俳優・石坂浩二氏の祖父であります。)
大日本体育協会がこのような大選手団を派遣することにしたのは、1940年に第12回東京オリンピックを招致しようとし、東京市会が前年に招致決議案を満場一致で可決していたからでもあります。
当時の日本は、国際的に微妙な立場でした。1931年満州事変が勃発し、日本の満州侵略に批判的であったアメリカでは、(特に在留日本人の多いカリフォルニア州では)反日感情が日増しに高まっていました。在留日本人の人々も複雑な心境であったでしょう。
この大会で、馬術競技の西竹一選手が大賞典障害飛越個人で金メダルを獲得し、アメリカはもとより世界中がその栄光を讃えました。そしてもう一人、世界の人々の心を捉えた馬術競技選手がいました。それが城戸俊三選手です。
城戸選手は、この大会の総合馬術競技耐久種目決勝戦に愛馬「久軍号」とともに出場しました。1889年(明治22)生まれ43歳の城戸大佐(当時は陸軍騎兵少佐)は、当時陸軍騎兵学校の教官でした。また今大会の馬術競技の主将も務めていました。
この種目は、32.29kmのコースに50個の障害が設置されている山野を走破しなくてはならないという非常にハードなものでした。全コースのほとんどを走り終え、あと1障害と1.94kmの距離を残すだけの所に来て、19歳という老馬「久軍号」にアクシデントが起きたのです。息絶え絶えになり、全身から汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていました。
しかし、忠実な愛馬のこと、ムチを当てれば、きっと最後の力を振り絞って障害に挑んだことでしょう。
そしてこの後、観客は信じられない光景に息を呑むことになるのです。
(続く)
観客が観た信じられない光景とは何だったのでしょう。今回のコラムはここまでです。感動の後編は次回のtotoエクスプレス通信で。
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